「世界を肯定してあげてほしいんです」 講談社ラノベ文庫編集長・猪熊泰則<後編>:東大ラノベ作家の悲劇――鏡征爾(1/3 ページ)
小説が求める“次の器”とは――。
1 失われ続けることをそれでも肯定したい<あなた>へ
突然ですが、十年前、あなたは何をしていましたか?
ほんの少しだけ、お時間をください。目を閉じてください。
そうしてまぶたの裏に宿る景色を、思いだしてみてください。
苦しかったですか。楽しかったですか。いまよりほんの少しだけ若く、それでいて決して取り戻せない年月の重みに、震えていましたか。
あなたは、何を心に描きましたか?
叶うことのなかった、恋について考えましたか?
それとも高い倍率をくぐり抜け、就職した時のことを考えましたか?
あるいは奴隷のような労働に疲れて、貯金の残高ばかり気にしていた時のことを考えましたか?
夢は、叶いましたか?
幼い頃に夢見た世界を、あなたは手にしましたか。
それとも夢に見たものを掴んで、逆に失望しましたか。
あるいは夢も希望もない、ただ死ぬだけだと、割り切っていましたか。
私はそれらのすべてを経験しました。
夢を手に入れ、憧れていた世界に幻滅し、あとはただ死ぬだけだと、電気の止められた寒い真冬の夜に、毛布にくりまりながら、考えました。
今日は2020年12月24日。クリスマス・イブ。
愛の賛歌を歌う日です。
「アアン、アアンーッ」
薄い隣の壁から聞こえてくる聖夜の鐘の音を聞きながら,震えるからだを毛布で暖め、考えました。
「あなたは何に心が動きますか?」
そんな問いに、答えを出せる存在になりたい。
そんな悩みに、少しでも役に立てる人になりたい。
幼い頃に見た夢と挫折。行き場のない怒りと不安。
それはおそらく、いま〈あなた〉がまさに直面していることではないですか?
どうすれば、ただ死ぬだけのこの意味のない生を、意味とは切り離して、生きることができるか。悔いのないように生きるか。
青くさい言い方ですが、遅すぎることはないのです。
そろそろ、動き出しませんか。
そんなことを考えているうちに、だんだん、意識が遠ざかっていきました。
気温は零度。
体感では、マイナス三百度くらいあります。
最初はなれなかった寒さですが、だんだん、気持ちよくなってきました。
雪山の遭難者が、あまりの寒さに眠くなると言うのが、わかった気がします。
薄れゆく意識のなか、思い出すのは、夏のことでした。
暑かった、季節のことでした。
うだるような暑さに、額から滴り落ちる汗。
酷暑のなかプールで水浴びした、塩素の残り香のする肌。
部活の帰りに、のどの渇きを癒やすように飲んだ、
さびれた菓子屋で買った、紙パックのゲータレード……。
今では母校のプールも郊外のお店も、一緒にいた仲間たちも、すべてなくなってしまったけれど、
その水増しされた飲料水の味を、私はたしかに覚えている。
飲んでも、飲んでも、満たされない渇きが残る。
これは、そんな渇きを抱えた〈あなた〉の物語だ。
失われたはずの何かを、信じて求め続ける――、
そんな存在に、この文字が届けば嬉しい。
2 編集者を口説くための最強の方法
三年前の夏。
講談社三階のカフェテリア。
天井の高い豪華な内装の一室に、私は、いる。
存在している。
目の前には、段ボールをもった編集長が、いる。
「とらドラ……」
猪熊編集長は、段ボール箱にいっぱいの『とらドラ!』グッズを、無機質な瞳で眺めながら、目を細めている。
「猪熊編集長」
「とらドラ……」
「編集長!」
「はい」
ススス。と、『とらドラ!』の段ボールをこちらに寄せながら、我に返ったかのように返事をする。
『スッ』
僕は、それを手で脇にどけて、質問を続ける。
「そういうことではないのです。『とらドラ!』の素晴らしさはもうわかったのです。わかった、わかったから……『とらドラ!』のグッズを頬に押しつけてくるのはやめてください。もういい大人なはずでしょう」
するとタイガー・猪熊はしょんぼりとして手を降ろした。
傷つけてしまったのかもしれない……。
たぶん、もともとがすごく繊細で素直なお人柄なのだろう。
だが、そういう人間は、こういうマンガやゲームや小説の過酷な現場、ある種の心を切り崩していくような業界は、とてもつらいことも多いのではないだろうか?
だが、まだ自分には訊かなければならないことがあったのだ。
心を鬼にして、僕は続けた。
「最近、読者さんからこんな質問があったんです。編集さんを説得してデビューするには、どうすればいいのか」
デビューに近道はないのか。
正確には、そんな質問だったが、言葉を変えた。
デビューに近道などというものは存在しない。
ある一定の基準に作品が達するまで、それが商品化されることはない。
商品化されたとしても、近道を探すような精神性では続けられない。
そもそも、これは作家界隈では有名な裏情報だが、小説家になろうや各種公募のライトノベル系の新人賞で発掘される人材は、大抵が再デビュー組だったりする。
業界の闇に触れてしまったかもしれないが、これはまぎれもない事実だし、そういった構造になっているということは、共有しておいた方がいいのだと思う。
実際、ある公募小説新人賞(先に断っておくが、講談社さんではない)の、最終候補に残った作家の実に八割が、過去に売れなかった作家の別名義による投稿だった、という話もある。
僕は、業界の暗部に踏み込むべく、話を続けた。
「現在、『小説家になろう』や『カクヨム』『エブリスタ』などといった、小説投稿SNSは、十分な読者を抱えています」
そこで人気作家になれば、おのずと、各レーベルから声がかかる。争奪戦になる場合も珍しくない。
「一方、新人賞に投稿する場合は、少し違ったやり方が必要になるんじゃないかと思うんです。そのあたりは、どのように編集長は考えているのですか?」
「なるほど……その答えは『とらドラ!』を見ろですね」
この人は話を聞いていたのだろうか。
チェーンソーで斬りかかりたい衝動に駆られたが(『チェンソーマン』にはまっています)、僕は黙って、コーヒーをスプーンで掻き混ぜた。
だが、僕の予想は間違っていた。編集長は、こちらの話を聞いていなかったわけでも、ふざけていたわけも、なかったのだ。
「編集者を口説く方法は簡単なんですよ」
そう言って、猪熊編集長は、ギラリと光る鋭い眼差しで、僕を見た。
「編集者を口説くためには、その編集が好きなものをひたすら褒めればいいんです。たった、これだけなんですよ」
「編集長」
「はい」
「『とらドラ!』を見ます」
「おお……?!」
「『海がきこえる』も見ます」
「素晴らしい……!」
「なんてチョロいんだ……マジで言ってるのか?」
「声に出てますよ」
でも、そういうことです。と、猪熊編集長は優雅な動作でコーヒーを飲んだ。
洗練された仕草だ。知的な洗練と本能的な衝動。その二つが、彼の中では常に同居していて、彼自身、己の感情の持って行き場に戸惑っているかのように思えた。
自身の才能をもてあます作家や、マンガのなかの登場人物と同じ印象だ。
「デビューの道は、いまは一本ではありませんよね。だから、どれがどう、という細かい話は、あまり意味はないと僕は感じています。はっきりいって無意味だし、あんまり興味ももてない。要は面白いか面白くないか……」
そこで、かつての記憶が蘇って、口ごもった。
――この作品が面白いのは、面白いか・面白くねぇか。そのただ一点に絞ってつくられた作品だからだと思う……
――集団下校なんて必要ない。あなたはあなたであってほしい。次回作以降は、可能な限り……あなたで、
……それは、遠い昔の記憶だ。
暑かった、季節のことだ。自分に創作を志すきっかけをくれた、夭折したゲーム・クリエイターの言葉だ。
「デビューの近道というより、デビューに至る道が違うんです」
状況を、敏感に察知したのだろう。急に黙り込んだ僕に、編集長が、そんな風に言葉をつないでくれた。
「『小説家になろう』なんかの投稿サイトでは、ある程度、『長期的な戦略』が必要とされます。何十話、何百話も、毎日のように投稿し続けて、固定ファンとなる読者をつけないといけない。それに対して、新人賞への投稿は、短期間の一発勝負。でも、なろう系も、少しずつ売り上げは落ちてきている……。さらに、最近はどこの出版社もオリジナルの新刊が売れにくくなっている状況があります。だからこその『とらドラ!』なのです」
猪熊編集長は、最後まで『とらドラ!』を連呼して取材を乗り切るつもりらしい。
「たしかに、編集長の言うとおり、Webでヒットして固定ファンのいる、『なろう系』は、ある程度の集客が見込めますよね。それが、読者のあいだでの、話題の『共通のプラットフォーム』になっている。一方、オリジナルの新刊の場合は、それと食い合わないジャンル、異世界モノなどとは異なるジャンル、要するにラブコメにまだ勝機があるとおっしゃられました。そこで、なぜ『とらドラ!』なのでしょうか?」
すると猪熊編集長は、ふふふ。と不敵に笑った。
「鏡さん。あなたはまだ本能的な本質をわかっていない。『とらドラ!』はあくまでも具体例なんですよ。では逆に質問です。編集者を口説くためには、何が必要なのでしょうか?」
一瞬、息が、止まった。わからなかった。だが、わからないようで、誰よりもわかっているような気がした。
作品は、魂がつくる。だがその魂とは、作家だけのものではないのだ。
『作品をだすためには、編集者を説得しなければならない』
業界の鉄則である。一人の編集者も説得できないのならば、本は出さない方がいい、という名言もあるくらいである。
「一個の作品の前には、作者も編集者もファンも関係ない……?」
「その通りです。ただ、その作品がいいものかどうか、です」
――何かを、つくる。
これは、作家と編集の共同作業である。
ものをつくる作業の過程において、一個の作品の前には、作家も、編集も、区別はない。編集者が出したアイデアを元にした作品が世に出ることもあるし(これは、マンガの場合にとても多い傾向があるようだ)、逆に、作家性を最大限重視した結果、多くの読者の胸に刺ささる場合もある。
「基本的に、その編集が好きなものが、その編集がつくりたいものだと思えばいいんです。僕がマンガの世界から、ラノベの世界にいってもいいと思った理由が、当時アニメでやっていた『とらドラ!』であることは、すでに述べましたよね?」
作家は、作家自身がつくりたいものをつくる。
編集者にも、編集者自身がつくりたい本がある。
その二つが奇跡的に一致した時に、素晴らしい作品が生まれるのだ。
猪熊編集長は、そのことを伝えようとしてくれていたのである。
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